【サッカーの歴史を紐解く】サッカーにとっての10番

【サッカーの歴史を紐解く】サッカーにとっての10番

文:徳市寛人(BALANCE. FOOTBALL. CLUB.)

7月20日。長いようで短い1か月は、スペインの優勝によって幕を閉じました。

今大会は往年の名10番が大会を彩ってくれた気がします。
メッシ、モドリッチ、ネイマール。何年もの間、国の10番を背負い続ける。そのプレッシャーは計り知れません。

さて今回はエースナンバーである10番の歴史について話したいと思います。

もともとは、ただの位置を指す数字だった

 

背番号がユニフォームに初めて入ったのは、1928年のイングランドだと言われています。

当時の番号は選手のものではなく、ポジションのものでした。前線に5人を並べる2-3-5という並びが主流で、GKが1番、最終ラインが2番と3番、中盤が4・5・6番、前線が右から7・8・9・10・11番。

つまり10番は、「その番号の選手はそこにいて」という位置を指すだけの記号でした。特別でもなんでもありません。

偶然が、神話になった

変わったのは1958年です。ブラジル代表の17歳が10番をつけて6得点を挙げ、母国に初優勝をもたらしました。ペレです。

面白いのは、その10番が本人の希望ではなかったことです。監督が適当に振ったとも、番号の届け出が間に合わず割り当てられたとも言われていて、いまも諸説あります。

ただ、どの説にも共通していることがひとつ。誰も意味を込めていなかった、ということです。

意味は、あとからつきました。1986年、マラドーナが同じ番号でアルゼンチンを優勝に導いたとき、10番は完全に「称号」になります。

同じだけ、届かなかった記憶もある

ただ、この番号の歴史は栄光だけでできてはいません。

1994年、10番のロベルト・バッジョは満身創痍でイタリアを決勝まで導き、最後のPKをクロスバーの上へ外しました。腰に手を当てて立ち尽くす姿を一度は見たことがあるのではないでしょうか。

10番は、栄光と同じ量の悔しさを記録してきた番号でもあります。

日本の10番も、ずっと重かった

日本の世界大会の10番をたどると、1998年の名波浩、2002年の中山雅史、2006年と2010年の中村俊輔、2014年と2018年の香川真司、2022年の南野拓実。

そして誰もが、「10番だから」と期待され、「10番なのに」と書かれてきました。2010年の中村も、2022年の南野も、途中でベンチに回っています。日本にとって10番も、その期待から栄光も挫折も共存している番号です。

2026年、10番たちの夏

ネイマールは34歳。ふくらはぎの負傷が長引き、5試合のうち2試合しか立てませんでした。

最後はノルウェー戦の終了間際、PKで一点。試合後、ピッチに座り込んで泣きながら、代表引退を口にしています。2014年の自国開催から、ずっと10番を背負ってきた選手でした。

モドリッチは40歳。ガーナ戦のコーナーキックは、40歳291日でのアシストとして、1966年以降のW杯で最年長の記録になりました。それでもクロアチアは、ラウンド32で去りました。

メッシは39歳で6度目の大会。8ゴールを挙げながら、2連覇には届かず、表彰式で涙を見せました。

そして日本の10番、堂安律は右のウイングバックにいました。たくさん走り、戻って、守備をしていました。その姿はまさに現代の10番を象徴する姿だったように思います。

得点よりもチームを勝たせることが10番の仕事だと、彼は大会中に語っています。

これからも憧れであり続ける背番号10番

68年前、誰も意味を込めずに振られたひとつの数字が、これだけの物語を吸い込んできました。

番号そのものに力があるわけではないのだと思います。背負った人が、あとから意味を足していく。

その歴史ひとつひとつが今10番を特別な番号にしている所以だと思います。

これからもサッカーのあるライフスタイルを日常に。
次もまた皆さんと共にサッカーの歴史を紐解いていきましょう。

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